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白藍の雲
幸村とかすがです。
ちょっとずつだけど進展しているのかな?
信州は本格的な雨期に突入したようだった。
気づいたときには上空に充分な水気をふくんだ雷雲が浮かんでいる。
もともと内陸に存在しているこの土地柄、1年の雨量はそれほど多くないとはいっても、さすがに梅雨の時期ともなれば集中的に雨が降る。ときには豪雨になることもあるから、油断はできない。
もっとも、梅雨でも大雨となるにも、この土地では様々な条件があるのだが。
信濃の国、特にこの上田の町では、ここ数日、大雨とまではいかないものの断続的に雨が降り続いていた。
こうなると外に出ている人間の方が少ない。往来にはぽつりぽつりと傘をさしている人が帰路を急いでいるくらいだった。
その上田の町の中心的存在である城の中では、少年がひとり、部屋に他に誰もいないにもかかわらずきっちり正座して、わずかに開けた障子のすきまから外をながめているのだった。
若草色の着物の上に茶渋色の羽織を肩にかけているが、袴はつけていない。暗褐色の帯に、小さな扇子をさしているが、この天気では役に立つことはなさそうだった。
少年は普段、毎日の鍛錬をかかさない若武者である。しかしこう雨が続くと、外にも出られない。部下から「風邪をひいたらだめだから」と、雨の日は外での鍛錬を禁じられている。部下の言うことを律儀に守っているのも主としてどうなのかとも思うが、力の入れっぱなしは良くない、と経験から学んでいるし、雨の日くらいは休んでもいいだろう。
雨が降っている日の外をながめているのが好きで、寒いから障子を全開にしたりはしないのだが、それでもわずかな隙間からそぼふる雨の様子を見ているのはなんとなく楽しかった。庭にしきつめられた玉砂利にぶつかってはじけ飛んでいく雨粒を目で追う。たまった水の中にさらにまた水滴が落ちて、不規則な波紋をつくっていく。雨という幕にさえぎられて、遠くの景色がぼやけ、にじんでいる。雨粒が様々な物体にぶつかって落ちる、様々な音。
本当にたまにだが、庭を小さなカエルが通っていくと、少しわくわくする。1日に2匹来たときは、それだけで幸運にめぐまれたような気さえした。
そんな話を部下にしてみると、「カエルなんて、どこにでもいるじゃないですか」と言われてしまう。たしかに、捜しに行けばどこにだっているだろうが、自分が一日中部屋の中でじっとしていて、障子のわずかな隙間から外界の様子を見ているときに偶然見かけるのが嬉しいのではないか。力説しても、あまり理解は得られていないようだ。
今日も朝から雨が降っていたから、少年はずっと、わずかな外界への入り口に体を向けている。今日はカエルは見ていない。少し、残念な気がする。
少年はあくびをかみ殺して、くせの強い栗色の髪を右手でぐしゃぐしゃとかきまわした。何もしない日が何日も続くと、さすがに体がなまってくる。雨を見ているのは楽しいが、なんだかんだ言って、もう5日程度、部屋に缶詰だ。
腕を大きく上にあげて、伸びをする。つられて、殺しきれなかったあくびがとうとう出てしまった。その途端、右足の太ももに鈍い痛みが走る。
雨続きだったためか、古傷がじくじくと痛むのだ。3日ほど前から、続いている。鍛錬を休んで部屋の中でじっとしているのも、それが理由の半分でもあった。
少年の名を、真田幸村と言う。
幸村は人なつっこそうな目を右手の甲でこすると、今度は懐から小さなはさみを取り出した。
爪を切ろうと思ったためだ。
きっちりした性格であることにくわえ、彼は槍使いであるがゆえ、手に関しては気を遣っている。ほんの少しでも爪が伸びてくると気になって仕方がないから、2日に一度ははさみを入れている気もする。そんな彼の爪は指からはみでることなく切りそろえられていた。
そういえば、昨日の夜に我慢できずに切ってしまったのを思い出す。
仕方なくはさみを懐に戻し、部屋の真ん中に陣取っていた小さな卓を、ずっと障子のすきまを眺めていられるような位置まで引きずってくる。
卓の上に無造作に投げ出してあったすずりを手前にひきよせて、墨をする。
筆と半紙を用意したら、なんでもない落書きをする。
ようするに、彼は退屈だった。
半紙を4,5枚無駄にしたところで、筆を放り出した。
そろそろ外に出たい、という気持ちが強くなってくる。
卓の上から半紙をどけて突っ伏すと、外からの雨音だけがより頭に反響して聞こえた。
聞こえる音は、様々なれど、いつもかわらない。
屋根瓦、石灯籠、玉砂利、わずかにみえる土、廊下の木の板……無機質なものにぶつかって消える雨粒。ここ数日で聞き慣れてしまった、“いつもの音”。
ばら、
ばら、
と、そこに、その“いつもの音”をさえぎるかのようにあらわれる、異なる音。
聞き慣れない音が気になって顔をあげると、障子のわずかな隙間から、真っ赤な蛇の目が覗いていた。
部屋のちょうど真ん前にある石灯籠を覆い隠すように現れたそれは地面と空の間をちょうどよくさえぎって、降り続く雨粒を自らから遠ざけるような形で流し落としていた。
「………。」
赤い傘がわずかにずらされる。
数ヶ月ぶりに見るその顔は、憂鬱な雨の中で、提灯の光のようにやわらかい輝きと明るさを放っているようにみえた。
彼女はてばやい動作で傘をたたみ、露を払い落とした。
「雨が続くな……。」
「越後も?」
再会するのも数ヶ月ぶりのことだというのに、まるで毎日会う隣人のごとく、ごく自然と会話を交わす。その間には再会を喜ぶ挨拶も必要なくなっていた。
彼女は傘をたたんで、そのまま部屋の中にあがってきた。
きっと日ノ本では珍しい、金色の髪にわずかに付着していた雨露が揺れながら落ちた。
「おかげで秋には豊作が期待できそうだけれど。」
「そうでござるか。」
彼女は、さりげなく幸村の隣に腰を下ろした。
かたわらに傘を置く。
寄り添ってきた彼女の肩は、雨にわずかに濡れていた。
幸村は手を伸ばして、部屋のすみの方でくしゃくしゃになっていた手ぬぐいをたぐりよせて、しっとりと濡れた彼女の体をふいてやろうとする。
「自分でやる。」
わずかな抗議の声を無視して、幸村はそのまま彼女の体をふいて、冷えた体に新しいてぬぐいをかけてやった。抗議を無視された彼女はむくれたが、すぐになおる。
てぬぐいの端の方に真田の紋を見つけた。
よく見ると刺繍になっている。
「佐助がやった。」
「ふうん。」
一目見るくらいでは気づきにくい、目立たなくてさりげない小さな家紋はおそらく、こんな手ぬぐいだけじゃなくて、さがせばいくらでも、どこにでもつけられているのだろうと、彼女は思う。彼の、この紋へかける思いは常軌を逸している。
彼女は上杉に仕えるくのいちだが、上杉の紋を背負って戦うなど恐れ多くてできない。その紋に込められた思いや願いを、正しく理解して昇華することなど、今の彼女には難しかった。
わざと彼女から目をそらすようにして外を眺めている幸村を、横目でちらりと盗み見る。
彼は一体どんな思いで、この若さで、彼の祖父の代から続くというこの紋を背負っているのだろう。わざわざ、戦装束の背中につけて、文字通り背負うような形にして。戦いの要である自らの首にさげて。
この前の年の秋に送りあった押し葉を思い出す。彼はそこにまで、この紋を描いていた…。
「雨が続くな。」
「そうだな。」
「軍神殿は、ご息災か。」
「そうじゃなかったら、他の国になんか来てる場合じゃない。」
それもそうだ、と幸村は笑う。
「雨だと、」
てぬぐいをとって、
「お前も部屋の中でじっとしているんだな。」
幸村の首に巻いてやる。
「雨なんか気にしないような奴だと思っていた。」
この紋は、彼のもとにあるのが良い。
「
少しだけ振り返る。
「別に気にならない。佐助が気にする。」
今度は彼女が笑う番だった。
「お前、あいつの名前を出さないとしゃべれないのか?」
体ごと振り返った。瞬間的に、彼女の顔のすぐ前まで、幸村が顔を寄せてきたので、驚いた。
「あやつにも同じことを。」
「え?」
「佐助には、“あいつの話ばかりする”と。」
「………。」
それは、普段はよく彼女の話をしているということだろうか。彼女は少し赤面した。
雨脚が強くなってきて、雨粒のぶつかる音が次第に大きくなっているように思えた。
周囲を包むように降っていた霧雨は、今や轟音と共に滝のごとく降り注いでいた。
障子は、開いたままだった。
「落ちるだろうか。」
「何が?」
「雷。」
見上げれば渦巻く雲の中に、ほんの少しだが稲妻が走るのがみえた。
今や淅瀝は激しく、互いの声すらも飲み込んでしまいそうだった。
「落ちるとなれば、そのとき。」
「天の定め。人の関知することあたわず。」
殷々たる雷鳴が轟いた。
彼女はあっ、と驚いて、思いがけず、幸村の胸にすがった。
はっとして顔をあげると、彼もまた彼女を見下ろしていた。
幸村は何も言わず、彼女がかたわらに置いていた傘を手にとって、それを広げた。畳の上に座っているふたりを、ちょうど覆うように、傘の柄から藤巻が、ふたりの間に割るようにしてそれを置く。
もとは1人用の傘だから、2人が入るには小さいのだが、それでも2人で入るために、さらに寄り添う形になった。
「雨が続くな。」
「そうだな。」
「でも、もう、やむ気がする。」
「どうして?」
彼は答えない。
言えない。
急に、彼女の肩に頭を寄せてきた。寄りかかるようにして体を預けてくる。
「昼寝がしたい。」
彼女が返事をする間もなく、数秒後には規則正しい静かな寝息が聞こえてきて、その呼吸にあわせて、着物の胸がゆるやかに上下し始める。
彼女は、幸村の頭がずり落ちないように、彼の肩に手をまわして、支えた。
こういうところは、本当に武士だな、と思う。
武士とは、戦いにそなえて、いつでもどこでも、寝たり起きたりする、睡眠をコントロールできるように訓練しているらしい。それは忍である彼女にも同じことが言えるけれど。
肩にあずけられた彼の体重は、不思議なことにそれほど重いと感じなかった。首元にかかる、くしゃくしゃの髪がくすぐったくて、それも、彼が呼吸をするたびに動くものだから、こらえるのに難儀する。
人が眠っているときの、やや高くなった体温が自分の体に伝わって来るのがわかった。2人の体温が混じる場所から、彼女の体まで熱くなっていくような気がした。
ほどなくして、瞳が開く。
「よく寝た。」
「“よく”? 一時とて経っていない。」
「心地よかった。」
もう目覚めているというのに、幸村は彼女の肩から頭をどけようとしない。そのままの姿勢で、また外を眺めている。
それからしばらく、2人とも何も言わないままだった。ずっと同じ体勢で、お互いの呼吸する音と、外からの雨声だけをその耳にして。
今度は彼女の方が、うとうととし始め、すぐに眠ってしまった。
幾許か、時が過ぎる。
うっすらと目を開ける。
起き抜けのぼんやりとした意識で、自分の周囲の状況を確認しようとする。
やけに体が不自由だ。
まず目に入ってくるのは、頭上に広がっている傘の平紙で、要するに彼女は畳の上に寝かされていた。
顔だけを横にして自分の右側を見れば、すぐそこに幸村が寝息をたてているところだった。思わず驚いてしまう。それがきっかけで完全に覚醒し、もしやと思って見てみれば、眠っている幸村の腕が自分の胸の下を通って、ちょうど抱きかかえるようになっているのだった。
そして無理に体を起こしてみれば、幸村の左腕が自分の頭の下にあったことに気がつく。
幸村が2人を覆うようにして広げた傘は、今は畳の上に寝っ転がった2人の上半身を、まるで屋根かひさしのように隠している。
彼女はとうとう恥ずかしくなって、幸村を揺すり起こした。
「…起きたのか…。」
「なぜ起こさないんだ。」
「雨も、…やんだぞ。」
幸村はまだ寝ぼけ眼のようだった。
見れば、障子が開け放たれている。
雨上がりのすがすがしい日の光が、玉のような雨露を様々に浮かばせた庭と、い草の畳を照らしていた。
「お主が……き…か…」
まだ眠いのか、幸村の言葉は途切れ途切れで、彼女の耳に届かなかった。
「起きろ。私が、どうしたって?」
幸村は上半身を起こして、障子の外を見る。
「さっき、カエルを見た…。」
突然、何を言い出すのだろう?と彼女は怪訝そうな顔をする。
「でも今日は…それ以上の……。」
聞かせるつもりがあるのかないのか。
幸村は突然、開きっぱなしの傘と、彼女の手をつかむ。
そしてそのまま、部屋から庭へと飛び出した。
裸足のまま、庭にたまった雨露の玉で肌が濡れるのもかまわず。
「散歩に、行こう。」
雨も降らぬ庭を、傘をさして。
まぶしいくらいに照らしつける、雲間からのぞく太陽を避けるかにして。
与えられるだけの天からの光など、もういらぬのだから。
歩きながら横を見ると、目が合った。
「かすが。」
「なに。」
なんでもない、と首を振る。
これで満足なのだから。
これから夏にさしかかろうとしている、照りつける光よりも。
触れている場所からやわらかい春暖をあたえてくれる、春の陽を。
こうも、愛おしいと思うのだから。
(あつい。)
ふれあっている手のひらを見て、思う。
彼女もまた、感じるのだ。
夏の日差しのような彼があたえてくれる、焦熱を。
こんなにも、愛おしいと、思うのだから。
了